
「お前やったら絶対コレ、好きやで」とコミック版の原作を親友に勧められたのはもう10年前。
絵はお世辞にもスマートじゃないし、主人公もブサイクで汚い。だけどその無骨な線からあふれでる“気”は筆者を圧倒し、壮大なドラマに心底惚れ込みました。
中国は春秋、広大な大地は小領主たちの割拠する戦国、秦の始皇帝が今まさに統一へと動き始めた頃。非戦を唱え、質素と他者への無償の奉仕を尊しとした思想家・墨子(ぼくし)のもとに集った弟子たちは墨家(ぼっか)と呼ばれ、戦争を止めさせるための戦術のプロだったが、時代の流れと共に思想は薄れ、体制に迎合するまでに墜ちていた。
秦兵10万の大軍が地方都市国家・遼城に迫る中、救援軍の派遣を依頼した墨家からやってきたのは、たった一人の男だけだった───
今回、寝耳に水状態で突然『墨攻』映画版が完成した、と聴いて驚き、中国映画でアンディ・ラウが主演と聞いて二度驚いて。とにかく観たい、観たいの一心だったものの試写会は全滅し、やむなく友人から入手したのは英語と中国語字幕版のDVD。
原作を知ってるからなんとかなるかと観始めてみると、英語はダメでも簡体字の字幕はけっこう解るもんなんですね。大昔、遣唐使・遣隋使たちが筆談でなんとかなったというのはあながち嘘じゃなさそう。
で、肝心の映画なんですが───
正直、すごいスケールなんです。いつもみたいに多分中国軍の協力を得てるんでしょう。CGではなくキューブリックの『スパルタカス』やデミルの『十戒』を彷彿とさせる実写の軍隊は圧巻。
だけど奇妙なことにこの監督、アップを撮らない。主人公たちもみなバストショットが一番の寄りなんですね。結局全編通じて首上のアップはワンシーンだけ。
あとはやたらロング、ロング、俯瞰。このたったひとつのアップシーンを強調したくてそうしたわけでもなさそうで、戦闘シーンでもみな妙に一歩引いてしまっているので、せっかくの迫力ある画面がみんな傍観者的な視点に修まってしまっているのがものすごく勿体ない。まるでスタジオ用の固定カメラで撮影しているテレビドラマみたいな構図ばかりなんです。
この作品と似たシチュエーションでは2005年の『キングダム・オブ・ヘブン』がありますが、あちらはカメラが縦横無尽に映し出すエルサレム攻防戦は時にロングで城壁に群がる軍を描き、時にドUPで死にゆく兵士の顔までしっかりと映し出していました。
お話は原作というよりも原案として使っている点は評価したい。筆者は、脚本というものは、媒体ごとに最も効果的な脚色をすることを尊しとしますので。
だから原作コミックと同じ登場人物でも、意外な設定になっていたのには2時間枠に納めるための工夫としてむしろ賞賛したいと思います。
映画のために加えられたキャラクターとしていかにも武人らしい弓の名手が登場しますが、なかなか良い演技を見せてくれますし、ヒロインとして登場する女性下士官も物語に花を添えています。
本作品の目玉のひとつでもある、韓国から招いたアン・ソンギ演じる巷淹中(こう えんちゅう)将軍は原作よりも策士。
ご当人は貫禄も味もあるのですが、先の撮影方法のためにどうしても群れのリーダーといった程度しか描けていず、死を賭しても兵士達がついて行こうと思わせるカリスマが画面に出ていないんですね。
これはツライ。俳優の演技が画面にちゃんと描き出せていないんです。
そしてテーマとしては人間同士の殺し合いの無意味さを徹底的に訴えたかったのだと思うのですが、戦術のエキスパートである主人公・革離(かくり。劇中では中国読みでグェ リー)はまるで実戦経験がないのかと思うほど、無惨に死に行く敵味方の兵士をみて動揺します。
原作での抜きはなった白刃のようなギラギラした気、血のにじむ修行を極めた者だけがもちうるカリスマ性、そして思想家ならではの、自らにも厳しい戒律を課す革離のストイック性はずいぶん薄れてしまっています。
悩む人間としての彼を描きたかったんでしょうが、この時代と舞台設定にしてはずいぶん甘い人物に見える。
そういう意味でも、毎度の事ながら宣伝コピーがまずい。『10万の敵にたった1人で挑んだ男。』って…
これでは彼の指揮下で死んでいった兵士は浮かばれません。
実は巷淹中にしても結局は秦軍の将軍に過ぎないので、最高司令官である王からの帰還命令があると逆らえない立場ですし、革離の場合は軍の指揮を任されても所詮は傭われの途中採用だから不要になれば『狡兎死して走狗煮らる』の理屈通りに棄てられるんですね。
醒めた眼でみてみれば中間管理職の悲哀を描いているようにも見える。
でも、カメラワーク・アングルさえよかったら、もっとそれぞれの役柄や演技も光ったのではないかと思います。
いやあ、ほんとうに勿体ない作り方をしてしまった作品です。
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