ひさびさに『文庫本』を買うた。その一。
もう、何年もこの手の本を買ってませんでした。余分なカネがない、てのもありましたが、ゆっくりと背表紙見ながら本を探す、なんて悠長な気持ちと、そういう雰囲気の書店が近所から消え失せてしまったのが最大の原因。
いま、私が住まう街にある書店はTSUTAYAのみ。それなりに所蔵量はあるものの、万人受けするような本しか置いてない。まして文庫本などはウントコ在庫があってこそ“読み手”にとって魅力がある本屋なので、在庫という事は裏返せば“売れない本の山”がある、ということ。
流通という観点からいえば真逆なのがこの手の本、というわけです。
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それはともかく、たまたま立ち寄った他の街の『本屋さん』で、なにか雑学というか、“余計な知識”の本が読みたくなった。時間もあった。てことで、今まで読んだ事のない作家の…と思いながら物色してみたものの、結局足が止まったのは尊敬する司馬遼太郎先生のコーナー。
『竜馬が行く』『坂の上の雲』『花神』『燃えよ剣』など、お馴染みの本が並んでる。しかも、永らく本屋から遠ざかっている間に、それまで文庫化されてなかった本も登場している。
ずーっと目線を移動させる。あ、これは司馬先生のコーナーとちゃうな…、と、走査範囲からそれてしまった本棚の上に、表紙をこちら向けに置かれてる数冊のシリーズ本が目に入る。
おや、津本陽先生も『龍馬』を出されてるではないの!!
津本先生の描く時代小説は方言がふんだんにとりいれられ、実にリアリティに富んでいる。
せやから、津本作品の信長、秀吉、家康は名古屋弁で喋るし、新撰組もそれぞれ出身地に応じての方言が入る。もちろん、薩摩侍とくれば、場合によっては何を言ってるか、注釈なしでは解らない、なんてほどに生々しい。
しかも、ご自身も剣を修行なさった人で、それも打つだけに徹しスポーツと化した竹刀剣法だけでなく、真剣による居合のほか、実際の据え物斬り、さらには食用豚ではあるが骨肉のある状態での斬撃を経験されてるので、その斬り合いの描写たるや、まさにホンモノを識る人でないと描けない凄みに満ちているのです……が、さすがに今や1冊¥800もする文庫本、全5巻を買うだけの余裕はないので、これは、またいずれ、と本棚に返す。
───てことで、ふたたび司馬先生のコーナーへ目を戻す。すると、持っていて見慣れてるはずの本に妙な違和感。手に取ってページをめくってみると、アホほど活字がデカい。
なんぢゃこりゃー!なんちう、ぶっさいくな文庫本。
そうか、そのせいで本が無意味に分厚くなってるのか。老眼対策のつもりらしいけど、実際に老眼になりつつある観点からあえて言わせてもらえば、昔の小さな文字の方がどれほど読みやすかったか。
親切のつもりかしらんけど、大きなお世話や、とゆーてる年寄りは多いんとちゃうやろか。小さい字は見づらい、それはあるやろけど、モノっちうのはなんでも程度モン、バランス感覚あってのことで、こんだけ大きかったら、私の場合はまるで小学校で先生に指されて教科書を読まされた時みたいに、両手を伸ばして、しかも近乱視メガネを使って読まんと読まれん。
本末転倒もええとこです。(;´д`;)
それだけやあらへんわね。活字がデカいせいでページをめくる頻度は増し、分厚すぎるために片手でホールドでけへん。本来、通勤時などに読むのに便利やったはずの文庫本がまるで字引並みの存在感では話にならない。
(余談ですが、最近のワカモノに“字引”て言うても通じんかったんですよ。そいつが無知なのか、字引が死語なのかは分かりませんけどね。)
しかも活字が無理に大きいために行間や文字間のバランスがすこぶる悪い。狭い、というかせせこましいのね、全体に。きったないレイアウトです。
書体もなにやら違和感がある。たぶん、電子フォントなんでしょうが、品がない。たまたま手に取ったのは文春文庫と新潮文庫なんですが、この新潮文庫がとくにヒドい。本としての美しさが微塵もない。
新聞もそう。活字デカくした分、記事の内容が薄いとか。ええ、私は新聞など読みませんからよく識りませんが、ラテ欄の欠如しまくった為に無意味になってる情報の羅列を見てる限りでは、たぶん間違ってないんでしょう、その感想は。
実は他にも欲しい本があったんですが、今風の不細工な文庫本に成り下がってしまってたので、古書で昔のマトモなバージョンを探すしかなさそう。奇妙な時代です。
逆に言えば、電子書籍になれば好きなフォント、好きな字間や大きさで読めるオプションが設定できるなら、そのほうが絶対歓迎しますけどね。ただし、電池切れを心配しながら本を読まされるようでは、まだまだ電子書籍は世に出るのは『十年早い』と思いますが。
あ。肝心の、味わいのある本を見つけた…ちう話をするつもりが、ぼやいてしもた。……ので、《その二》へ続く。
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コメント
TOMさん、暑中お見舞い申し上げます~
「字引」、勿論わかりますよ。(笑)
さすがに死語にはなっていないと思いますが、「字引」の必要性自体は薄くなってきてるかも。
辞書引く前に、「検索」で大概の疑問は解決しちゃいますからね。
手間をかけることが少なくなった分、失われていくことが沢山あるのでしょう。
寂しいことです。
ちなみに、本は断然「紙」派です。
だって電子書籍じゃ、「紙」の匂いが全くしないじゃないですか。
TOMさんにとっての「栞」同様、自分にとっては「匂い」なのです。
なので、電子書籍への道のりは遠いです。永遠にやって来ないかも。(笑)
投稿: 小夏 | 2010.07.28 16:08
小夏さん、毎度〜♪あ。暑中見舞、先を越されてしもた。
私もね、ほんまに辞書って使わなくなりました。
どっちかというと『お国公認の立場ではどう説明してるか』を確認したい時くらい。
ただ、紙に関しては文庫本などリユース可能で、そのものが一年以上残る(残せる)そして使うことが前提の書籍は別ですが、キエモノである雑誌や新聞、広告媒体などに貴重な資源を使うのは正直やめるべきだと思っています。
返品された雑誌や捨てられる新聞、広告のものすごい山を見てると、いつか天罰が…と思うのですよ。こんなことしてたらダメです。ちゃんと代わりの物を発明したんですから。
投稿: よろづ屋TOM | 2010.07.28 20:51