『デュラララ!』2010年代の青春群像劇なのかも
いま破竹の勢いの『電撃文庫』発の何本目かのアニメ作品です。もちろん深夜帯なのでもしかしたら一般の大人の方もチラッと位はご覧になったかも知れませんが、私はこの手の作品こそ歳喰った人に観ていただきたいと思います。
ただし、きちんと観ていただくことが大切。
上っ面だけ観て登場人物たちの底知れぬダークな部分にビビったり、暴力的な描写だけ観ていたずらに眉をひそめたりしないでいただきたいな、と。
まず私は現時点で放送された二話分のアニメのみで原作等は知らないので、あくまでそこまでで感じた記述であることをお断りしておきます。
とにかく登場人物が多いです。オープニングで次から次へと名前込みで出てきますが、覚えるどころか珍走団のラクガキふうな殴り書きの文字を判読してるだけで次のカットに移ってしまう。
そもそも映画『クラッシュ!』や大河ドラマにもなった堺屋太一さんの『峠の群像』など、いわゆる群像劇というのは、一般的には主人公を特定しないでカメラが物語から一歩引いたような視点から登場人物全体を見渡すような演出方法を採るか、逆に登場人物たちと順に接触してゆく主人公を視点や語り手として描き出すようなスタイルを採るものがほとんどではないでしょうか。
しかしこの『デュラララ!』、同じ作者のバッカーノもそうですが、主人公を特定しない…というか毎回異なる主人公で話を描いてゆくスタイル。
まだそれでもバッカーノは流動的とはいえ多少なりとも中心となる人物が据えられていましたが、デュラララでは一話は一話の主人公・竜ヶ峰帝人(りゅうがみね みかど)のモノローグで話が進み、二話では話中に関係のない沢城みゆきさんのナレーションで話が進められていました。
どうやら毎回語り口さえ完全に変えてゆくつもりらしい。
この手法は、ひとつ間違うと観ているものは混乱しやすくて支離滅裂な印象を与えてしまうんですが、うまく構成に成功しシリーズを通して観てさえいれば、多角的な視点を観客に提供できることで物語の深い部分にあるテーマや謎をうまく見え隠れさせつつ、観客の脳裏にじんわりと全体像を刻みつけてゆく事ができますね。
ただし、パズルと同じでピースが欠けると途端にワケが分からなくなる。
完全に語り口を変えることで、ある意味一話一完結としても観られるんですが、逆に言えばたまたま観た回が好みに合わない場合はそれっきりになる危険性もはらんでいるわけです。
またバッカーノは連続活劇の要素が濃いので、次を観ないと今回の謎が解けないというジレンマが手伝うのですが、デュラララは世界観に馴染めない場合、少しでも飽きさせたら次に繋ぐのがかなり難しいのではないでしょうか。
DVDなど、作品そのものが商品として成り立つ独立系アニメが市民権を得ている今だからできる、通る企画だと言えますね。
もしかしたら見た目の地味さを回避せんが為の存在が『謎の黒バイク』なんでしょうか。
首がない、というか実体がないような描かれ方。一話では魔物ふうな表現も。
アニメの世界はまさに“何でもアリ”なわけで、理屈も道理も関係ない。だからこそ理屈や道理をきちんと描くことでリアリティを持たせ、その縛りの中で空想を描くことで荒唐無稽なファンタジー要素に重みを与えてきた表現の数々で日本のアニメは世界の先駆者たりたわけです。
しかしそれでもリアル一本槍ではどうしても苦しいことはジブリの実験的作品『海がきこえる』や『おもひでぽろぽろ』などを観ても感じられます。
ここで言う空想とはSFちっくな事だけでなく、ギャグタッチ表現や引用ネタ、動物無機物の擬人化も含んでのこと。だから一見リアル風な『けいおん』も『のだめ』も、実写ではあの味は絶対に出せない。
実写映画でも『マスク』『実写のだめ』などSFXでその手の作り方をした作品はありますが、アニメと違って実写でこれをやるとグロテスクで見苦しいだけ。お話が楽しいか面白いかというのとは別ですけどね。
ここで私が定義として使ってる規準は、“実写にした場合、鑑賞に無理がないかどうか” です。
そういう意味で、『デュラララ!』は黒バイクが居るだけで普通の話でなくなってます。
日本のSFXでこれを描けば仮面ライダーもどきになってしまう。画面からリアリズムも何も消え失せ、映画の中の作り話として遠いものになって、この物語世界にシンクロすることが難しくなり、単なるエンターテインメントになってしまうでしょう。
とはいえ、黒バイクは『デュラララ!』の中核に食い込む重要なファクターなのでしょう。でなければ出す必要はないし、そうでなければ勿体ない。
というのも、黒バイクの正体が本当に化け物かどうかはともかく、ああいうオカルティックな要素がなかったら、昔から日本やハリウッドで描かれてきたそれぞれの年代の青春群像映画をほうふつさせるだけの内容を含んだ記念碑的な作品になりえるんではなかろうか、と感じたからなんです。
もっとも、どの青春映画でも言えることですけど、それがその当時の若者像のすべてだ…というステレオタイプな見方は軽率だって事は、私自身が1980年代のワカモノとしてまったくの部外者だったことからも分かってはいますが、『若いヤツの中にはこういう考え方、生き方をしてるヤツがいる』ってことのカタログのひとつにはなると思うんです。
今のところ『デュラララ!』は暗い。なにげに口ずさんだメロディみたいなタイトルも、なかばヤケクソ気味な、なかばどうにでもなれ的な。ある意味、吉田拓郎さんの名曲『人間なんて』の歌詞を連想させます。
でも二話を観る限り、そんな中にも救いもちゃんと描かれていて、それほど自暴自棄なつくりではなさそうな物語だと安心もしたような次第。
『化物語』もそうでしたけど、これも今の現代物ラノベの傾向のひとつなのか、自分の置かれたろくでもない状況に放心状態に近い主人公が、ふとした事件に巻き込まれる中で不器用にあがきながら、そのうちにもうどうにでもなれと自暴自棄になって初めて一筋の光明が見えて、なら、まだ生きててもいいのかな…と思い直すような話によく出くわします。
この放心状態、自暴自棄、そして結末の希望も希薄…ってあきらめ半分な熱の無さが昔の青春ものと見事に一線を画すところですが、先が気になることには違いありません。
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