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2009.08.08

今こそガンダムと戦争を考えよう:3 〜兵士の苦悩〜

 シリーズタイトル、長くてちゃんと末尾まで表示されないので変えました。
 先シーズンに終わった『ガンダム00』そしてその前の平成ガンダムシリーズの先駆けとなった『ガンダムSEED』『ガンダムSEED DISTENY』。
 いずれもファーストガンダムの魂を受け継ぐ作品群だと私は思っています。
 ファーストガンダムが登場するまでは、子供向けと決めつけられていたテレビアニメで“戦争”を描こうとした作品などありませんでした。
 戦うという事は、敵の人間を殺すという事。

 しかし、ドラマの進行上どうしても主人公は戦いに慣れてゆく。どの作品も例外なしに。

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 ガンダムに限らず、強力な人型兵器に乗り組むことになった若者たちの通過儀礼───
 最初は自分が人を殺したという行動に戦慄するものの、そのうちそれは日常の事になってゆく。
 同時に最初は取るに足りない脇役とはいえきちんと描かれていた敵兵士の存在と死は、物語が進んで行くにつれて次第にエキストラ、そしてついには『敵』という記号と化してゆき、強くなった主人公の一撃によって一瞬ののちに画面から消えるのです。
 ときにその描写は痛快でさえある。事実ガンダムをモチーフにした百人斬り千人斬りのゲームすら存在します。もちろんゲームの目的は快感を得ること。(ただし私はそうしたゲームを取り沙汰して昨今の衝動殺人への引き金になっているなどという愚かで短絡的な発想には異議を唱えます。ゲーセンで殺人鬼が育成されるならバッティングセンターやワニワニパニックのほうがよほど実用的ですからね)

 実はその変化こそが恐ろしいのだと訴えねばならないのですが、哀しいかな、放送しコマーシャルを流しキャラクター商品やDVDを販売する事で利を得ることが必須である以上、それをテレビアニメで追求するとお話が空中分解してしまうでしょう。
 だからアムロは最後には救われ感動的なラストを飾る。精神的にも救われて。

 かくして、観ている側もいつしか痛快なまでの戦闘シーンをカッコイイと感じ、次々と敵を屠(ほふ)ってゆく新型ガンダムの模型を手にしたいと考えるようになる。
 私らの世代が戦争映画を観て、その裏側にある本質を考える前に兵器のかっこよさの方に気を取られたのと同じです。

 だけど、その主人公たちの『変化』───“慣れ”こそが恐ろしいのだと唯一、作品を通じて見せ続けた人が居ます。
 それがファーストガンダムの生みの親、富野由悠季監督だと私は思うのです。
 Zガンダム、ZZガンダム放映時に私は、なんでこの人の作品はこうもクドくて破滅的なんだろうかと思ってました。正直、20代の私は観ていて疲れてしまった。
 さらに同時期の『伝説巨人イデオン』『聖戦士ダンバイン』はもっと顕著で、最後はとにかく救いがない。誰ひとり幸福になったとは思えず、主人公は最後の最後まで迷って、後悔して、場合によっては自滅、自暴自棄に近い形で死んでゆく。

 昔は単にギリシャ悲劇好みの監督がヒロイズムに溺れているだけの作品に見えていました。

 けれど、こうして年齢を重ねて、ふと前回の記事のように現実の戦争を顧みて重ね合わせてみると、実はそうした結末こそが本当の戦争の帰結したカタチではないのか───そんなふうに思えてきます。
 ベトナム戦争の帰還兵がほとんど例外なく心を病み、今もその後遺症に苦しんでいると言います。しかし朝鮮戦争、太平洋戦争に加わった兵士たちは違ったのか?

 そんなはずはないのです。世代や時代が異なり、武器の質が違っても、人間なんですから。

 恨みも理由もない相手を殺し殺される異常な日々を送ってきて正常な神経でいられるはずがない。安物の映画じゃないから、弾丸が当たれば肉ははじけ骨は欠け飛び、血液や内臓が散乱するのが撃ち合いの現実です。そして戦場の空気は硝煙と血の臭い、敵味方の死体の腐臭で満ちている。
 人間は同じ環境下では“慣れる”生き物ですが、同時にそれを記憶のどこかに刻み込む生き物です。

 戦士だの、勇敢に戦っただの、せめて何かを誇り理由を付けなければ人を殺したという事実には耐えられない。
 私の三人の叔父はそれぞれ陸軍一等兵としてビルマ、海軍整備兵としてサイパン、そして潜水艦搭乗員として戦場へ赴きました。
 ビルマへ行った叔父は戦病死で還らず、あとの二人も当時のことはひとことも語りませんでした。でもそういう人のほうがずっと多いらしいことは様々な報道で皆さんもご存じでしょう。

 広島に原爆を落としたB29のパイロットたちは最後まで自分たちは正しかったのだと言い張って亡くなったそうです。でもそれは当然だと思うのです。そう思わなければ耐えられない。
「お前はボタンひとつで数万の人を殺し、今もその数倍の人々を放射線障害で苦しめているんだ」
 国の命令に従ったことで背負わされたそんな重荷をどうすればいいんでしょう。

 異論はあるかも知れませんが、極端に言えば最終的にアムロ・レイはララア・スンのことだけ悩み悔やんでいました。でも連邦軍のエースパイロットとして彼が殺した無数のジオン兵の、その残された家族はの彼の事をどう思っていたのでしょうか。また、シャアに殺された連邦軍兵士の家族は?
 そういう意味でも殺された側の遺族イセリナ(婚約者なのでニュアンスは異なりますが)やアムロの母(殺人者の親の立場)がきちんと描かれていたことには驚嘆の思いですが、それを引きずるとやはり話の軸線が変わってしまう。そして引きずったのがイデオンであり、ダンバインだったのかとも思えます。
 ガンダムSEED DESTINYでのシン・アスカもそういう意味では遺族側というスタンスなのですが、結局殺人者の側になったときにそういう意識は感じさせなかったのは残念で哀しかった。まあ、あの作品のテーマはそこではないので、それにこだわるのは私のエゴです。

 でも戦場では狂っていないと不幸でしかない。これは確かだと思います。
 で、なければ自分も死ぬ側へ廻るしかない。

 富野ヒーローたちは後に登場する者ほど、そうしたことも含めて“正気だったために”苦悩し後悔し続けていたように思います。それも、自我が崩壊してゆくほどに。

 放映当時は彼らの壊れてゆくサマがあまりに見苦しく、どうしても見続けることがしんどかった。
 今ならもがき苦しみ続けた彼らの事をもっとちゃんと観て、多少なりとも解ってやれるかも知れません。

 次回はまた明後日、戦争の始め方、終え方について。

《つづく》
 


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コメント

わざわざ私のサイトにまで来てくださってとてもありがたく思っています。だからまたコメントをさせていただきます!!

確かに当時のアニメは子供向けのものという状態だったらしいですね。
富野由悠季さんがアニメの仕事に付いたときは、
「アニメなんて低俗なものはやりたくなかった」といっていたように当時のアニメはなんというかオタクの集まり見たいなとこもあったようです。
そこまで低俗とは個人的には思わないのですが、富野由悠季さんは少し言い方がきついこともあるようなので。
ガンダムの出るまでは敵というものは、敵であってそれ以上でもそれ以下でもなく、その敵の感情なんてものはせいぜい「正義の野郎を倒す」ぐらい。それに倒したヒーローも「また懲りずに出てきやがっていくらでもたおしてやる!」ぐらいしか思っていないことでしょう
しかし、実際はそんな事は無くもっと深く考え悩むのが現実、そういうリアルさは主人公が武器の名前を叫ばない。なんていうことよりもっと深いところのリアルをとてもよく描いたと思います。
だから富野さんは以前低俗だと言っていたアニメをそれより上のものへ押し上げそして、現在の地位を築いたのだと思います。

考えてみれば深い話ですねー
でも考えてたら、ZZでプルが死んだのが酷く落ち込んだ記憶がよみがえってきたwww

投稿: セトユーキ | 2009.08.09 14:44

考えてみればそうですよね……
本当のリアルな戦場であれば……言葉に出来ないような
状況なんて日常茶飯事……
イデは全部見ましたが……
そうですよね……全生物の魂を武器や動力源に変えちゃうなんて……
考えられませんよね……

投稿: hiro1468 | 2009.08.09 21:03

セトユーキさん、こちらこそ感謝です。
私にとって富野さんはガンダムよりも『ザンボット3』こそショックでした。あまり再放送もないんで若い方はご存じないかも知れないんですが、命を賭けて戦ってるのに、守っているはずの地球の人から恨まれ、呪われ、さらに家族は次々と戦いの中でまさかの犠牲になってゆき、友人もあまりにも簡単に殺されて。
当時の特撮もアニメも『悪』の概念でここまで非道いものもないかわりに、やってることは敵として理に適っていて。しかもその正体もSFとして成り立つだけの内容でしたし。

さらに途中のエピソードでは、一般人しかも子供である主人公が兵器に乗るのは問題だと自衛隊が出張ってきてザンボットを押収したり。そんなリアルな話なんて前例がない。
そしてザンボットの巨大感、重量感。あれほどの巨大感をこの後に描いたのはOVAジャイアントロボまで待たねばなりませんでした。それほど斬新。
しかも当時一年ぶっ通しが当たり前の時代に2クールで終わるんです。濃厚な2クールでした。
ところで、彼の口調のきつさはたぶん照れ隠しと自分嫌いから来ているように思えます。


hiroさん、こちらにもコメントくださってありがとう。
大戦中、参戦国で戦災を受けていないのはアメリカ国民だけなんです。だから当時も今のイラク戦争と同じでテレビや新聞の向こうの話なんですね。だから兵士の家族以外にとって所詮は対岸の火事だった。
自国内に戦災を受けていると、戦争に対する意識が変わります。たとえ自分が体験していなくても親や年寄りから聴かされた事がちゃんと映像に刻まれるのです。
だからアメリカの戦争映画はどこか明るい。どんなに戦いが悲惨でも、ちゃんと帰る家と家族が無事にありますから希望と勇気に満ちてますね。そしてその家の人は戦場を知らない。
しかも歴史が侵略と征服する側で、自分らが追われたり滅ぼされかけた体験もない。土地もある。すべてに余裕があります。
そういう国で作られる戦いの映画は軽い。実際に戦場から還った者は口を閉ざしますから行ってないものが綺麗事だけ聞きかじって作る。だから勇敢さとか自己犠牲とか自由を守るとかの安っぽいヒロイズムだけのスターウォーズのような薄っぺらな戦争を当たり前とした作品ができてしまう。

世界にアニメを創る国は数あり、いまや日々無数の作品が生まれていますが、多くの戦争を経験して最期には国を焦土として敗戦し唯一の原爆被爆の経験がある、しかもロボットの最先端技術を持ち、同時にアニメの文化を育てている日本でこそ描ける世界があると思うのです。
生物の魂を武器や動力源に変えるというのも、富野監督ならではの比喩表現でしょうね。

投稿: よろづ屋TOM | 2009.08.09 23:46

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