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2006.08.26

「子猫殺し」、自分なりの反響…

 先日、帰宅時の電車の中で前にいたおっちゃんのスポーツ紙にでかでかとあったのが『直木賞作家、犬猫殺し激白』みたいなタイトル。
 「うわー、またワイドショー好みのネタやなあ…」と思っていたら、筆者が愛読およびコメントでもお世話になっている小夏さんがさっそく記事にされていました。

 記事内に問題の作家が書いたという文書があったので、ようやく事の顛末が飲み込めました。なるほど、過激な文章ですね。
 ただ、筆者の感覚はひねくれているのでこの作家の行間から匂ってくる開き直りが読み取れるような気がするのです。もしかしたら誰かに咎められて「そーだよ、悪いか」とばかりに勢いで書いたのかも知れないような、ふてくされた文体。

 いわく、『家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである』
 直木賞作家だけに描写が巧いから余計なのでしょうが、短くて無駄のない文なのに、たしかに酷たらしい光景が容易に想像できますね。そのことだけでも愛猫家にしてみれば怒髪天なんでしょうが、このあとに続くくだりがそれに火に油を注いでいる。

『社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。』

 この時点ですでに大ブーイングが巻き起こるんでしょうが、筆者はまだこれでも「う〜ん、まあ、極論やけど言わんとすることは解る」んです。賛成や同感は得られないけど。
 けどそれに続く一行はいただけない。

『どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。』

 そう書いてしまうと「あたしは悪くない」って言ってるのと同じで、せっかく後ろ指をさされる覚悟で書いたカミングアウトの言い訳になってしまいませんかね?
 それに“いえるものではない”なんて決めつけることはできない。いえるでしょう。人にはそれぞれ異なる価値観や考え方があるから。

 そんなわけで筆者は思うところを、先の小夏さんの記事に長々とコメントを書かせていただきました。また、同じくコメントを寄せられたボー・BJ・ジングルズさん、にゃごにゃさんにも宛ててコメントらしきものを偉そうに書かせていただきました。

 だけどぶっちゃけた話、送信してから後悔がないわけではないのです。
 「ああ、ゆーてもた」って。余計なことをダラダラ書いただけではないんだろうか。不愉快にさせてしまっただけで思いは伝わらないままではないのか。しかもコメントだから文字制限もあるのに長々と三回にわたって送りつけたりして…と後悔。
 あれでも必死に割愛してるんですよ < 小夏さん…いつもご迷惑おかけしてごめんなさい。

 だけど書かなかったらずっと悶々としていただろう、とも思います。結局、まだ何か書き切れてない気がして、こうして自分のブログにも記事アップしてしまってますし。
 直木賞作家さん、ホントに難儀なコラムを書いてくれたものです。私が一番ひっかかるツボに一矢くれたものだから無視したくてもできない。

 『ものを口にするとき、感謝の気持ちを忘れてはならないとずっと考えてきましたし、今もその気持ちは変わりません。
ただ、それを信じる一方で、それは単なる自己欺瞞なんだと理屈で割り切る自分もいるんです。それが交互にぐるぐると巡っています。
自分が喰われる立場になったとして、感謝してやるから死ね、と言われても納得できない。無益であろうと有益であろうと殺される側にとっては同じ事だから。』

 これはにゃごにゃさん宛のコメントとして書いたものを再掲載させてもらったのものですが、筆者はこの矛盾がそのまま戦争に於けるエセ正義やそのための殺人の是非ともダブるのです。
 次元が違うよと言われるかも知れませんが、生命の重さを論じるなら人も獣も同じステージに上げるしかないと思うし。

 ただ、最近奇妙な定義を思いつきました。生命と魂と意識は違うもので、みっつセットになって初めていわゆる“生きている”状態ではないか、ということ。

 生命とは生きるためのエネルギー、魂とは存在の本質、意識は個体が生きて経験してきてはぐくんだ自我だと定義してみると、本能のみと思われる原生動物や植物などは意識がないけど生命と魂はある状態だという表現ができます。もちろん自我は持っていないだろうという仮定においてですが。
 死を目前にした人の場合は意識と魂があって生命がなくなりつつあるということ、そして2006年時点でのコンピューターやロボットは意識と生命があって魂がないという表現ができるのではないでしょうか。

 これはかの小説家の、生まれたてすなわち“意識のない子猫”は“受精することのなかった卵子”と同じだという極論に近い解釈かもしれないと思うのですが、いまさら生命の重さは変わらないなんてきれい事を並べても結局害虫は殺すしかないですし、動物愛護協会の人の中には鯨は可愛そうだと論じたその同じ口で子羊肉(高級品は生後まだ乳を飲まない間に屠殺したもの)に舌鼓を打っているかも知れない。
 その逆のパターンとしては、哀れを感じながらも環境維持のため仕事としてやむなく捕殺して野生動物の頭数をコントロールする人もいれば、娯楽のためにスポーツとして野鳥や狐をハンティングする人もいるということ。釣りと同じだという感覚もあるでしょうが、目的が食べるためが主か、狩猟行為が主かで意味合いも変わるでしょう。
 いずれにせよ、殺しているという事実には変わりないんですが。

 しかし、かくいう筆者は10年以上も熱帯魚、グッピーを飼っています。先の小夏さんのブログに書いたコメントにも『寿命は一年ほどで、毎年100匹以上生まれては死んでいるでしょう。ブリーダーではないので稚魚はそのまま育てますが、それでもたまに奇形種が生まれます。水槽の数が限られているから遺伝子に異常が現れやすいのです。
そういう時は仕方なく“処分”するしかない。しないと、一年サイクルで繁殖を繰り返すグッピーは遠からず滅ぶからです。
でもそれは言い訳です。食べるためでも自衛のためでもなく、管理上の理由から殺すのです。』

 ちなみに、グッピーにははっきりと判るほどの感情は多分なさそうなのですが、個体によっては確かに温厚なヤツもいれば、自分で産んだ稚魚を自ら追い回して食べてしまう荒くれもいて、たかがメダカの一種ですが、本能だけしかないとは言い切れないところもあります。
 とはいえ、筆者を飼い主だとは認識するほどの知能がないのは間違いないと思われます。

 だけど、どんなへりくつをこね回して自分の殺生行動を正当化したところで、結局筆者もかの作家と同類かも知れないな、と思うのです。
 筆者が“奇形だから”と稚魚を殺すのも不要だからというのが理由。この作家と同じ動機なのです。ブリーダーは雌雄が判別できるように育った時点で交尾しないように雄と雌を別の水槽に分けます。つまり“避妊手術”と同じですね。
 で、必要に応じて適当な雄と雌をひとつの水槽に入れて“掛け合わせる”のです。分けたまま飼い続ければ繁殖しないまま彼らは死滅します。犬や猫の品種改造(改良というのはあまりに傲慢な表現で使いたくないので)の場合はどうなんでしょう。ブリーダーが求める特質を備えないものは不要ですよね。
 とはいえ犬や猫なら雑種ということでも売ることはできるから、まさか殺しはしないとは思いますが、ペットにすることと同じく人間の欲や傲慢による犠牲者に違いはないでしょう。
 つくづく人間は業が深い…なんて他人事みたいに書いている私こそ積み重なり続ける業で押しつぶされそうです。

 グッピーの一生は一年ほどとサイクルが短いぶん、何度も何度も生と死の繰り返しとその舞台である小さな水槽世界に閉じこめた自分の罪深さを思い知らされるのです。
 愛らしい稚魚がワンサと生まれたら嬉しいのと同時に、また新たに罪を重ねてゆく現実も突きつけられるなど、ネガティブとはいえども様々な形で筆者に世の無常と無情を教え続けてくれています。

 なのに最近とみに感じるのは、我ながら驚くほど情が薄いんだ、ということ。やたら感動する喜怒哀楽激しいたちなのに、いざとなるともしかしてどこかで人間ではないのではないかと思うほど薄情になれるんです。
 人格の崩壊って、こういう所からほころんでゆくのでしょうかね。

 私は気が小さいんでしょうね。虚勢を張ってみても心が弱いとみえて“たかが小魚の始末”だけでその日一日気分が重いけど、この作家は殺した子猫の夢を見たりしないんだろうか。私も、単なる始末、無益な殺生でなくて食べるために殺していたならば毎回こんな嫌な気分にならずに済むのだろうか───
 ああ、なんか明確な意見がスッと出てこない自分が情けない。

 漫画の神様、手塚治虫先生は生涯をかけて描いた漫画はすべて生命がテーマでした。私も死ぬまでにそんなメッセージを誰かに伝えることができるのだろうか…

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コメント

TOMさん、こんにちは。

TOMさんをはじめ、いろんな方のいろんな意見を伺って、物事というものは結局「自分がどう感じたか?」ということに帰結するんだなぁ~という当たり前のことに気づかされました。
それを踏まえて改めて読み直しても、彼女の主張からはペットに対する傲慢さしか感じ得ませんでした。個人的に興味深い作家さんだっただけに残念です。

>いずれにせよ、殺しているという事実には変わりない
確かに、人間はその事実を忘れてはいけませんが、今回に限っては「ペットへの責任」と「他の動物を殺している事実」は敢えて切り離して考えるべきじゃないかと思ってます。
もちろん、TOMさんのグッピーちゃんへの対処も然りです。これは、他の命を守るべくやむを得ないことだと思いますから。けど、「たかが小魚」でもTOMさんにとっては「されど小魚」、心が痛むのは当然でしょう。要は、その事実から目を背けなければいいのじゃないかしら。私はそう思います。

いやぁ~、それにしてもこのニュースには、お互いほんっと振り回されましたね。
良くも悪くも、人の心を揺さぶる凄まじい筆力だと思いません?さすが直木賞作家ですよねぇ。(←もちろん皮肉です、念のため。^^;)

投稿: 小夏 | 2006.08.28 16:45

≫「ペットへの責任」と「他の動物を殺している事実」は敢えて切り離して考えるべきじゃないかと思ってます。

 結局そうなんですよね。そう考えるしかない。
 わかっているんですが、なんか深いところから吹き出す意見をバシバシ書いているうちに何を言いたかったのかよく解らなくなってしまった。ある意味ではかの作家もそうだったのかも。モノカキはもともと多重人格の分裂症でないとできませんからね。

≫それにしてもこのニュースには、お互いほんっと振り回されましたね。

…いやあ、ほんとに。どっと疲れましたね。(;´д`;)

投稿: よろづ屋TOM | 2006.08.28 17:07

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