はい、みなさんこんにちわ。
私は観たい映画は初日に観る主義やったんですよ。それがこの映画に限って、もう今週で終わって次のがかかるというギリギリになってしまったんです。
理由はやはり声の配役。とはいえ、声優と俳優の間に垣根はないはずなんですが、それでも向き不向きはあるはずなんですね。
実際、ハウルの声をSMAPの木村拓哉氏が演ずるに当たっては決定時から公開後まで賛否両論あったし、逆にこの作品をご覧になられた方はまったく意識しなかったことに驚いた、という話も多く聴きました。
実は私もそのひとりになりました。
だから逆にいうと彼ほど独特な存在感を持つ人を起用してまで、あえてリスクをおかす必要があったのかどうかが最後に引っかかるのですが…
それはともかく、この映画がこれからの私にとってかなり影響力を持つに違いない作品であることは間違いないでしょう。
宮崎作品を観て誰もが思い、また公開前から期待することかも知れませんが、やはり“すごい”ということに尽きるんですね。
日本映画が堂々と公開できるようになった韓国でも、公開一週間で『千と千尋の神隠し』の総動員数をかるく越え、韓国で公開された日本映画で最高の入りを記録したといいます。
ベネチアなど欧州の映画祭での賞取りはかないませんでしたが、おそらくこの作品には彼らが期待する“東洋らしさ”などかけらもなかったからだけのことだと思います。
では、なにがすごいのか、なんて今更言う必要もないでしょうから、私がウ〜ンとうなった部分をお話しさせてくださいね。
もともと宮崎作品というか、ハイジのズイヨーエンタープライズ、マルコの日本アニメーション時代から連綿とつづき、いまや“ジブリらしさ”と表現されるものには自然の描写の見事さがありましたが、『ハウル〜』のそれはさらに磨きが掛かっていて、オープニングの画面だけでもうファンにはズッシ〜〜〜ンと来てしまうんですね。
そこへ久石譲氏の音楽がかぶると私はもうダメです。
一瞬にして宮崎ワールドに引きずり込まれているんですね。「ああ、この感じ。これにどっぷり浸かりたくてたまらんかったんや」と気付きます。これって、『ナウシカ』以来そうなんですよね。ナウシカなんて、オープニングのタペストリーでウルルと来てしまったんですから。
風の渡る草原、花畑、雲が霞が流れる山々、どこか懐かしい街並み、得体の知れないメカの数々、愛すべきキャラクターたち。
ましてそこに“宮崎好み”のイタリア大時代的で無骨な戦艦などが出てこようものなら、ニカッと笑っている監督の顔が思い浮かんでしまうほど。
ハウルの城を好奇心のおもむくままに探検するソフィ婆さんは、観るものへの説明を兼ねているとはいえ、宮崎監督、ひいては観客が観てみたい、してみたいことそのまんま。ああ、私も城に乗ってあのデッキに出てみたい。
だけどやはり宮崎演出の真骨頂を観たなあ、と思えるのはオーニソプター(羽ばたき式飛行機)よりも空中浮遊よりも、私にはベーコンエッグなんですね。
今回はLL寸卵をひとりふたつずつ、しかも1cmはあろうかという厚切りベーコンがフライパンで焼けてゆくくだりは、ハリウッドがどんなに予算を掛けてパフォーマンス・ピクチャーを開発しようともできっこない描写。
先に焼いたベーコンは焼けるにつれて色が変わり、縮れもしっかり描かれ、さらに流れ出す油は傾けたフライパンでジュウジュウと泡立つ。
かつて『ラピュタ』でパズーがお弁当に持っていった目玉焼きはしっかり焼いてあり、パズーはぺろりと食べてしまうのですが、今回のは見事に半熟。マルクル少年がかぶりつくと黄身がつぶれて中味が流れ出る。これって、やっぱりなにか前回の目玉焼き描写に対してなにか思うところがあったのではなかろうかとさえ勘ぐってしまうほどの描き込み方。
ベーコンと目玉焼きをあえて分けて焼いているのもなにかコダワリを感じてしまう…男の料理としては、ごっちゃにして焼きそうなものなのに、それもハウル(宮崎)流の美学なのでしょうか。
一方、美しい風景やたんねんに描き込まれたシーンシーンの数々が紡ぎ出すのは、実はとてつもなくシュールな物語。
舞台はどこかは判らないけどヨーロッパ。19世紀っぽいけど、空にはみたことないテクノロジーの飛行物体があたりまえに飛び交う。魔法も存在し、王政がひかれているらしい国はちゃんと栄えているのに、なぜか戦争をしている雰囲気。
やがて誰かわからない敵と戦う、どこの国のか判らない戦艦の戦闘シーンが何度か描かれ、そのうち人々が避難した美しい街は敵からの空襲も受けて燃え上がる無惨なありさまになってゆくのですが、とくに人が傷ついたり死ぬなどというシーンもなく、また攻めてくる敵兵も人間ではないんですね。
だからといってそれを操っているのは果たして敵国なのか、それとも自国の宰相を務める魔法使いなのかもちゃんと説明されていない。
『ナウシカ』では人間という存在そのものが自然という世界を敵に回したための報いと償いの方法を見つけるプロセスが描かれ、『トトロ』では一切の激情を押さえ、あるべき形を示すことで今の人間のあり方に一石を投じ、『ラピュタ』では“未来少年コナン”で描かれたように間違って発展した科学文明崩壊後の贖罪を、『もののけ姫』ではあきらかに驕った人間が自然に対して侵略戦争を仕掛けることに対する行き場のない怒りが描かれていました。
しかし『ハウル』ではリアルな戦闘描写に対して、冷淡なほど客観視した物語にむしろ恐怖を覚えてしまいます。
戦争に出撃する兵士のパレードを祝福し声援を送る市民たち。無惨に破壊されながらも寄港する戦艦。
だけど、熾烈な戦闘の中で観客が見知っているのは巨大な鳥の姿のハウルだけ。一体誰と戦っているのか。誰のために戦うのか。
これは一体どんな話なんだろうか、って考え込んでしまいました。
ハッと思ったのは、これって現実の我々のことなんじゃないだろうか、ということ。
テレビでどこかの国の戦争の話を毎日見聞きしていながら、我々はフツーに生活している。気の毒だとは思っても直接は関係ないからですよね。かつて日本が戦争当事国だった時はよその平和な国の人が新聞とかで同じ事をなにげに感じていたんだろうか、とも思ったり。
そして世界遺産とかでなくても、美しい風景は世界中にいまもある。一方で目を覆いたくなるような惨事もひきをきらずに起こる。無意味な殺人が発生する一方で幸福な結びつきや誕生がある。
そして、それが現実。
一応この物語で唯一の悪役のような魔法使い宰相サリマンが最後に「これでハッピーエンドってわけね。」と言います(ネタバレや〜とおっしゃるかもしれませんが、宮崎作品でハッピーエンド以外はありえないでしょう?)。
でもこれって、まんまアンチテーゼになっているように思えて仕方ない。観た人で“拍子抜けした”とおっしゃった方もおられたようですが、確かに突然のようにすべてが上手くいって終わるんですね。
第一、こんなクサイ第三者的な台詞なんていままで宮崎作品にあったでしょうか。
これがハッピーエンドなんだろうか。そんな単純な物語なのだろうか。ほんとうに監督がそんなつもりで描いたとはどうも思えず、むしろ観客がそのことに疑問を感じるようにわざとあっけなく終わるように作られているように思えてなりません。
「みなさん、本当にこれでいいと思いますか?」と。
かつて黒澤明監督が、年齢を重ねるにつれて描く作品世界がどんどん観念的になっていったように、宮崎監督も最近の作品はとてつもなく深い何かがちりばめてあるように思えます。
もちろん、優れたアニメーション作品が皆そうであるように、幼い子供は幼い子供なりに、若者は若者なりに、そして年輩の人間には年輩の人間でなければ感じ得ないものを感じ取れる作品なんですが、『もののけ姫』あたりからはそれ以上に何かもっと複雑な宮崎監督のメッセージがいっぱい散りばめられているように思えてなりません。
みなさんはどう思われましたか?
それはそうと、予告は勿論、チラシや事前プレスでもおそらくは意図的に露出をひかえたのだろう、18歳本来のソフィの姿は、私が見る限り宮崎キャラクター中もっとも美人だったのには驚きました。なんて可愛いんだろう。なんて魅力的な女性なんだろう。これまでの宮崎ガールズのどこか幼さの残った少女の顔でない、文字通り“年齢に関係ない”女性ならではの美しさ。
そうか、それで隠していたのか。だから90歳の姿しか出さなかったのか。やはり宮崎監督一流の意地悪、イタズラには毎回やられてしまう。そのたびにあのニッカ〜って笑顔が浮かびます。くそう、またやられた。
そして声の倍賞千恵子さん。私にとっては“寅さんの桜”ではなく、あの何事にも一途なソフィの雰囲気はまさに彼女が若い頃、昔の松竹映画『ふるさと』『家族』で演じられたままの、一所懸命な役柄のイメージにぴったりでした。
それでは、また。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。
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