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2004年6月

2004.06.27

大長今(テジャングム)放送決定!

 先日ヤホーのニュースを観てたら!

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ヨン様の次はヨン姫…NHKが主演ドラマ

 NHKは23日、韓国で視聴率50%を超えた人気ドラマ「大長今」の放送権を購入したことを発表した。
 放送時期は未定だが、早ければ秋にも日本の茶の間に登場する可能性がある。主演は映画「JSA」「春の日は過ぎゆく」などで韓国で絶大な人気を誇る女優イ・ヨンエ(33)。日本では「冬のソナタ」主演のペ・ヨンジュンが中高年を中心に女性に人気だが、今度は“ヨン姫”がおじさんの話題をさらいそうだ。
 物語は、料理人として宮廷に仕える「長今」が苦難を乗り越え、女性として初めて国の最高位の医師になるまでを描いたサクセスストーリー。
 韓国では昨年9月から今年3月まで放送され、最終回で57・8%の視聴率を記録した。NHK衛星第2ではこれまで「冬のソナタ」「美しき日々」に続き、現在も「オールイン・運命の愛」(木曜午後10時)と韓国ドラマを放送。さらに、「冬のソナタ」は現在、地上波で“再々放送”中だが、19日に17・6%の高視聴率を記録した。ヨン姫効果で二匹目のドジョウとなるか、注目される。(日刊スポーツ)
[6月24日9時34分更新]
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 さすが日刊スポーツ、“ヨン様の次はヨン姫”なんてタイトルとかの持って行き方がアホアホでトホホだが、とにかく大長今(だいちょうきん、ちゃいまっせ。テジャングムと読む。)が放送されるのは嬉しい限りだ。
 なんせこのドラマのおかげで韓国では宮廷料理ブームが巻き起こり、新しくレストランはできるわ、家庭でも作ろう(または作れと旦那に言われ)とお料理教室が大盛況になったというシロモノ。

 なによりも韓国の時代劇が観られるのが嬉しい限り。
 日本でもキチンと時代考証に基づいて作られた時代劇は言葉遣いも全然異なるように、韓国でも古語とも言うべき言葉遣いになる。
 朝鮮王朝の生活習慣や慣習も見られるから、これこそ本当の意味での文化交流の架け橋になる。
 あなたは朝鮮半島の名物とも言える赤唐辛子が、400年前の秀吉の朝鮮侵略以前にはほとんど使われてなかったことをご存知だろうか。日本人で中国史に詳しい人は珍しくないが、朝鮮史に詳しい人などめったに居るものではない。それほど朝鮮史は知られていないのだ。

 反面、日本側もキチンと正しく描いた時代劇や優秀な歴史ドキュメンタリーを韓国で見てもらう努力をしているのだろうか?今のいい加減なエンタメ系時代劇など観せていたのでは、いつまでたっても根底から日本人を理解されるようにはならない。
 秀吉がトチ狂って朝鮮出兵を唱えたときに、賛成した大名などいなかったこと、出兵はしたものの、ほとんどの大名たちはどうすれば早く無益な戦を終えて日本へ帰国できるかしか(たとえそれが自己保身のためだけだったにせよ)考えてなかったかなど、おそらくほとんどの韓国の人は知らないだろう。

 難しい話はともかく、ドラマとして楽しむには問題は吹き替えの声だ。(-_-;)
 どうもNHKは昔から声優さんを軽く見ているみたいで、無理矢理に声優経験のない俳優を起用する傾向がある。じっさい、あまりにも本人とかけ離れた声質や雰囲気に、いろんな意味で眉をひそめるファンも多い。
 NHK、声優をなめるな!………おや、嬉しいはずのニュースが小文句になってしまった。

 ともあれ、これがヒットすれば深夜枠だろうがなんだろうが、『武人時代』『商道(サンド)』『茶母(タモ)』などの韓国の名作大河が観られる日も近いが、イ・ヨンエの演じる主人公は魅力的だ。
 努力と愛情と根性というのは、NHK朝ドラが毎回大ヒットをとばしていた頃は主人公の必須科目だった。
 彼女が平民からどんどん位階が上がるに連れて服装も華麗な宮廷のものに変わってゆくのも、おそらく日本の女性達にとっても目に新しく、また魅了するに充分なはずだ。
 上手い具合に朝鮮王朝社会の入門編としてヨン様の『スキャンダル』と近々放映される『春香伝(チュンヒョンヂョン)』がもってこいである。

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2004.06.17

ブラザーフッド(原題:太極旗を翻して)

 はい、みなさんこんにちわ。(*^_^*)/
 なにかと話題の多い韓国映画の中で、制作中から世界的にも注目されていたのがこの作品。
 というのも、やはり監督が韓国映画をイッキに世界メジャーに押し上げた『シュリ』のカン・ジェギェだったからですが、今回も韓国映画としては異例の高額予算を投じて制作されました。
 物語は1950年夏、早くに父を失ったあと、靴磨きをしながら一家を支え弟を大学へと通わせていた兄は秋には結婚を控えた身でしたが、突然起こった朝鮮戦争のために兄弟は強制的に徴兵されてしまい、母や婚約者、婚約者の幼い弟妹を戦禍迫る中へ残したまま血みどろの戦場へと追い立てられて行きます。
 戦場、それも最前線という異常な環境の中、兄は特別な手柄を立てれば弟を除隊させるという約束を大隊長と交わし、そのためだけに次々と危険な任務をこなしてゆくうちに、いつしか戦場の悪鬼になってゆく…というもの。

 私自身、韓国の文化にふれるまでは知りませんでしたが、くしくも日本公開の直前、6月25日は朝鮮戦争勃発の日です。韓国語で625を表す“ユギオ”という言葉は、韓国ではそのまま朝鮮戦争の代名詞なのです。

 広告のキャッチでは“究極の兄弟愛”と唱われています。間違ってるとは思いませんが、普段はこの手の映画に涙もろいクセに珍しくまったく涙が出なかった筆者としては、兄弟愛と言うよりは“弟のために鬼になった兄の哀しさ”を描いたものだと思うのです。
 かつて筆者は『プライベート・ライアン(98年アメリカ作品)』の冒頭、ノルマンディ上陸シーンを観て生まれて初めて映画で本当の戦場を疑似体験したような気になりました。
 飛び交う銃弾の擦過音、血しぶきを上げて粉砕される兵士の肉体、次の瞬間にはそれにひるんだ兵士の頭をも銃弾が貫くという、戦場では当たり前であるはずの光景を映画でこれほど正確に描いていることに筆者はたいへん感銘を受けました。
 筆者が幼いころ戦災の悲惨さを親から聴かされ、興味本位で兵器や武器の知識を得るに従ってその実際の威力を知り、また死体映像を公開することにあまりやぶさかでない東南アジア系のドキュメンタリーをノーカットで見た経験からすると、昨今の日本やハリウッドの戦争映画や殺人シーン、時代劇における殺陣の描き方があまりにも稚拙で「うあー、やられたー」的な表現にはへきえきしていたのです。

 例の事件のせいで故・深作欣二監督の作品は問題視されていますが、内容を見るとかつての東映やくざ映画のノリでかなり大げさな表現なので、B級ホラーかお化け屋敷的な雰囲気すら感じます。むしろ殺人をリアルに描く点では、北野武監督の作品のほうが毎回ぞっとするほど怖ろしい。
 でも、殺人そのものを、殺人を犯す者を怖ろしいと感じさせてこそ正しい描写だと筆者は信じます。美化した人の死や稚拙な殺人の描き方は、本来殺人が持っている残虐性や死の悲惨さをオブラートに包んでしまうもので、かえって人間が持っていなければならない恐怖や死に対する畏怖の念をマヒさせてしまうのではないでしょうか。

 実際、拳銃はドキューン!というような迫力のある音は出ず、パン!とまるで陸上競技のスターターとそう変わらない音しかでないこと、しかし逆に実際に撃たれた場合、大口径だと肩なら砕け、頭の場合はまるで落としたスイカのように粉砕されてしまうのです。
 当然機関銃や爆弾の類となると何もかも粉々です。そして人間は今まで生きていたことがウソのようにあっけなく死にます。

 『ブラザーフッド』はそういう点で大変写実的であり、正直な話この映画ではそんなシーンばかりだと言っても過言ではありません。それこそ公開当時、女性の大半、観客の多くが気分を悪くしたという『プライベート・ライアン』のノルマンディ上陸シーンがずっとずっと続くのです。
 しかもそれが『プライベート・ライアン』よりも更にリアルさが増していて、実際にヒトが撃たれているのではないか、誰か本当に死んでいるのではないだろうかと思わずにいられません。
 ウォンビンやチャン・ドンゴンなど見知っている俳優が出ていなければとても映画だとは思えない生々しさなんですが、そんなシーンばかりが延々と続くために、やがて自分の感覚が麻痺してゆくのを感じます。ヒトが無惨な死にざまをさらすことに慣れてゆくのです。

 逆にいえば、それは平和な生活から一転して突然戦場へ送り込まれた主人公達の目線でもあるわけです。

 ただ後半、取り憑かれたように北朝鮮の兵士を殺しまくる悪鬼と化した兄に“もうやめてくれ”と弟が訴える理由が、兄の身を案じてというのが少々ひっかかるのですが、映画という物語である以上、当然ですが主人公たちに感情移入してしまうのは否めません。
 それが監督の思惑なのかどうかはともかく、常に彼らの視線と立場で観てゆくうちに、やはり観客はいつのまにか彼らの気持ちに入れ込み、やはりその時その時の“敵”を殺して行きながら危機に陥った場合は主人公達が敵を倒すとホッとしている自分に気づきます。

 だからこの映画で泣けるとしても、単純に不幸な兄弟への同情とか、『シュリ』『JSA』で描かれたように、今も朝鮮半島をふたつに裂きつづける悲惨な現実や、人間の業ともいえる人間同士の殺し合いに対する怒りと哀しみ、血で血を洗う憎しみの系譜とでも言うべき『キャシャーン』で感じた行き場のない悔しさとは少し違うのです。
 言うならば、むしろ弟のために悪鬼となり、さらに巡り合う悲惨な運命に翻弄されながらも、もう鬼でいるしか仕方がない兄の哀れさこそが、悲しいのではないでしょうか。

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2004.06.10

シルミド(実尾島)

 はい、みなさんこんにちわ。(*^_^*)/
 60年代後半。ヤクザの抗争から殺人を犯して死刑を宣告された主人公は謎の男から「国のために、もう一度生きてみないか」ともちかけられる。
 死刑を免れたものの、同じような犯罪者たちとともにはるばる海を渡って連れてこられたのはシルミド(実尾島)という孤島だった…

 国の身勝手な政策という押しつけられた“運命”のなかで必死に生き抜こうとする連中のあがきを冷静に描いた映画の内容もさることながら、この事件が1971年を発端にしてるという事実にショックを受けます。

 71年と言えば、日本で言えば大阪万博の感動もまださめやらぬ、ハイテク時代への幕開けとなった頃でした。
 今年三月に公開された『殺人の追憶』でも、その舞台となった80年代は日本でいえばマイケルジャクソンやマドンナの来日など、バブルの絶頂期だったのに、韓国では当たり前のように戒厳令があったり、灯火管制があったことを知って驚きました。
 『シルミド』の舞台である71年となれば、もっと北朝鮮の驚異は差し迫ったことだったはずです。
 私たちは本当に平和になった国で育ったんだなあと実感させられました。
 
 この作品は邦画では絶対に考えられないリアルなアクションシーンもほとんどがスタントマンなしで韓国の俳優たちが決死の思いで演じました。
 残念ながら日本人にとっては、この事件の本当の重さは対岸の火事程度にしか理解できないかもしれません。
 しかし、単に史実を描いたアクション映画、感動で泣ける映画だというよりも、この事件が真実を描いたドキュメンタリーであることを感じ、いろんなことを考えながらぜひとも多くの人に観ていただきたい作品です。

 主演のソル・ギョング(ハングルで見て気づいたんですが、ソル“ギョング”ではなく、正しくは“キョング”ですね。)は韓国きっての性格俳優で、秘めた刃(やいば)のような切れ味の眼差しと演技は、筆者的には緒方拳のような役者(うんと若いですけどね)という位置づけ。かつてBS特別ドラマ『聖徳太子』で、朝鮮から渡来したもと刺客の役を演じたこともあります。
 ちなみに彼の次回作はあの伝説のプロレスラーを描いた『力道山』。しかも共演は『ホテルビーナス』において韓国語で熱演した中谷美紀。
 いやはや、いいカタチでの日韓共作が実現しそうで嬉しい限りです。

 また共演のアン・ソンギは“国民俳優”と呼ばれる名優であり、理想の上司ナンバーワンにも挙げられるカリスマ性の持ち主。
 ラッキーなことに試写会で舞台挨拶を観られたのですが、役柄で彼が見せる姿とは正反対の、やわらかで優しげな物腰は久しぶりに本物の紳士を見た思いでした。その時アン・ソンギさんが「共作とか合作というのを意識せずにフランスやイタリアの俳優がフツーにアメリカ映画に出るように、韓国や日本の俳優がお互いの映画に自然に出られるようになればいいと思っています」とおっしゃってたのが印象的でした。

 それと、もうひとりの主演とも言えるチョン・ジェヨンは『ガン・アンド・トークス』というアクションコメディで、ウォンビンの兄貴分役を演じたのですが、その時はロンゲでクールな役柄だったからかトヨエツに似てる印象を持ったものの、今回の方が個性的で役者としてずっといい味だしてるなと思いました。今後が楽しみな俳優さんです。
 他にも現在『オールイン〜運命の愛〜』に出演中で、主演のイ・ビョンホン生涯の相棒となる役柄のホ・ジュノなど、なかなか豪華なキャストも魅力。

 余談ですが、第三班の班長が話すのはプサン弁で、いわば韓国の大阪弁。また劇中で歌われる“黄色いシャツ”は今も知られる韓国の懐メロ代表曲。
 でも死線を越えてようやく一人前の暗殺隊となったとき、彼らが送別会で酔って唄った歌は、なぜか北朝鮮の軍歌だったという哀しい皮肉も。

 この映画は、2003年度韓国の作品です。またこのコーナーでお逢いしましょうね。

 公式サイト→ http://www.silmido-movie.jp/

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K-POPは韓国語でないと韓流ぢゃない〜

 2002年ワールドカップから本格的に韓国ポップスのスターたちがゾクゾクと日本でデビューし始めている。
 ざっと思い出すだけでRoller Coaster(発音は“ローラコスタ”)、紫雨林(ジャウリム、と読む)、RYU(冬ソナの主題歌、挿入歌)、神話(シンファではなく、シヌァが正しい)、Position(韓国で尾崎豊のカバーを歌いJ-POPを大ブレイクさせた)、SUGER、Jewelry、そして10日に日本デビューの日付が公表されたイ・スヨン(日本ではスヨンでデビュー)などなど、枚挙にいとまがない。
 しかし実際にはまだまだどこかマニアックな分野らしく、レンタル屋さんの大手チェーン店でさえ「K-POPのコーナーはどこですか?」と訊ねて「ゑ?けー?」と店員に怪訝な顔をされるのがオチである。
 筆者が住む大阪でも、セルでK-POPを扱う店はほとんどなかった。それまでは韓国のCDと言っても、ワールドミュージックのコーナーにチベットやアンデスの民族音楽に混じってパンソリ(韓国の民族音楽)などが数枚があったにすぎなかったのだが、冬ソナ効果とでも言うのか、ナンバにあるタワーレコードがこの春からコーナーどころか、いきなり一面ラック化していたのには驚いた。(ちなみに先のイ・スヨンは24日にそこでインストアイベントをするらしい…クソ、平日か(;´д`)。)

 日本で売っているK-POPと言っても、日本からリリースしたものはわずかである。だからほとんどは輸入盤だといっても過言ではないと思うが、実際にそこでズラリと並んだK-POPを見てメチャメチャ感動した。
 筆者などはこれまで気に入ったたった一曲のK-POPを入手するために、天候に左右される韓国からのAM放送を必死で録音したり、歌手もタイトルもわからない曲をアテもなく探したりとどれほど苦労したかを考えると夢のような出来事である。
 しかも日本盤よりも¥500は安い。もちろん日本語の解説やルビなどはないが、そんなものは英語のポップスと同じで韓国語を勉強すればよいのである。

 さて、今回のイ・スヨンもそうだし、現在NHK衛星で放映中の『オールイン』主題歌を歌うパク・ヨンハ(冬ソナで“ぺ様”の恋敵?サンヒョクを演じている彼である)も日本盤リリースのために日本語でも録音している。
 先の神話やSUGER、Jewelry Boxなど、はじめに列挙したK-POPの旗手たちはみな日本デビューに於いて日本語の曲を入れているのだが、筆者にはこれがどうにも好きになれない。
 彼ら韓国人の外国語学習能力は、日本人のそれとは比べものにならないパワーである。だから日本語の発音がどうとかという問題ではなく、その姿勢においてどこかひっかかるものがあるのだ。
 というのも、韓国で日本文化をオープンにしてくれた若者たちはネットや海賊版のようなもので日本文化を日本語のままで受け入れてきた。意味が解らないからと当たり前のように日本語を学ぶし、学ぶ限りはとカンペキに日本語を操る若者が増えている。
 もちろんK-POPに惚れ込み、そのために韓国語を学ぶ日本人も増えているが、到底その数は韓国の比ではない。

 それに対して現時点では日本の歌手(筆者は歌手をすべてアーチストと呼ぶのは絶対反対だ)たちは、自分の歌を韓国語で唄って韓国デビューしようと考えているヒトがいるとは思えない。SMAPのクサナギ氏や彼に賛同した俳優・タレントたちはむしろ奇特な部類だろう。
 逆にドリカムやパフィはアメリカデビューのために英語で曲を吹き込んでいる。つまり、日本はアメリカで、韓国は日本で売り出すことに於いて、どこかでへりくだっているような気がするのだ。
 そこが一種の“媚び”を感じてしまうのでK-POPファンの筆者としてはどこか釈然としない部分があるのかもしれない。
 “韓流(ハンル)”というのは韓国ブームのことだと思っている人が多いようだが、K-POPの旗手たちが日本語で歌っている間は韓流などではけっしてない。韓国の若者が日本語の歌を日本語で聴くように、日本人がアメリカンポップスを英語で聴くように、台湾や香港の若者は韓国語でK-POPを愉しむ。筆者も当然K-POPは韓国語でないとK-POPではないと考える。
 K-POPを誰もがフツーに韓国語で愉しむ状態になって、はじめて日本は韓流に乗ったと言える。

 ぶっちゃけた話、韓国の歌手の歌唱力、ダンスは日本のそれに比べてずば抜けている。日本のアイドルが音痴でも許されるのに対して、あちらではそんなのではデビューさえ許されないのである。
 はじめてK-POPのパワーを知り、同時に水面下ではJ-POPも知られていると聴かされてからは恥ずかしくて仕方がない。

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2004.06.04

アホな政治家だらけになってきたということですかな

 Yahooのニュースによると、
“井上喜一防災担当相は4日の閣議後記者会見で、長崎県佐世保市の小学校で起きた女児殺害事件について、「元気な女性が多くなってきたということですかな、総じてどこの社会も」と発言”したそうだ。
 某知事に限らず、ずいぶん以前からこうした“失言大王”が政治屋に多く見られるが、これほどスカタンな失言をした大臣はなかなかいないのではないだろうか。
 あえて突っ込むならば、“ケンカ口論(この場合はチャット口論?)から殺人に発展するのが元気の証拠”ということなのか、“元気だから殺人に発展した”と言うことなのか?しかし、これだけチンプンカンプンで頓珍漢な発言では、揚げ足取り大好きなマスコミとしてもツッコミのしようがないかもしれない。
 今回のような事件が発生すると、必ずスカタンなコメントをする“有識者”が出てきて、“チャットでムカツク書き込みをされたから殺人に発展した”から、“チャットは相手が見えなくて危険だ”と短絡的および一元的な見方で論法を展開する。
 難儀なことに自分の耳目を持たない人に限ってこれを鵜呑み同調してしまって騒ぎ立てるのであるが、得てしてそういう人たちほど実際に経験もせずに批評のための批評をするから困る。
 
 案の定『専門家の間では、顔の見えないコミュニケーションの危うさが指摘されている』とか『会って話せば、表情や身ぶりから、相手の真意を測れるが、文字だけのネット上のコミュニケーションは、表現が稚拙だと、感情の行き違いが生じやすい』という方向性ではやし立てているわけだが、それなら電話での会話ではどうなのか?

 慇懃無礼という言葉があるように、敬語で話せば良いというものでもないし、殴り合いのケンカは当たり前だが“実際に相手の顔を見て”いないとできない。
 また、我が国はもともと“雄弁は銀、沈黙は金”なんて教育方針で数百年やってきたために、口べたが多い。ヒトのことは言えないが、雄弁と思える人でも無駄口が多い。
 逆にいえば、チャットで不愉快な物言いをする人は実際に会っても不愉快な物言いをする素質があるということだ。誠意を持って会話できる人はもともと相手に対する誠意すなわち他人に対する思いやりを持っているわけである。
 だから問題はチャットだとかの問題ではない。これがPC一般化以前なら、教室の黒板に中傷誹謗を書かれていたわけだし、授業中に廻される手紙がそうだった。アイテムが21世紀らしくなっただけで、問題の根本はそんなところにはない。

 筆者は学生の頃も現在のような青臭い真面目さがタタって、ちんぴらゴロツキ学生(不良と呼ぶには根性もポリシーもない連中だった)から個人的な攻撃対象にされていて、さんざん陰険な嫌がらせをされた。クラスメイトは知っていたが勿論戦ってまでは助けてはくれない。担任教師はアテにはならない。
 そんなわけでぶっちゃけた話、空想の中で可能な限り残忍な方法で何人も殺したものだ。
 だがあいにく筆者はずる賢く、それを実行に移した場合に損をするのは自分である、という計算が働いていた。一生のウチでわずかな間しか縁のないクズを殺したところで、自分の人生を棒に振るだけ損である。そんな値打ちなど、どこにもなかったからだ。
 しかし今考えてみると、連中の頭の中ではかなり幼稚で低い“意地悪”レベルだったのかもしれない。

 学校や家でネットのマナーを教えているかどうか、を説く有識者がいるようだが、それ以前に、結局は相手に対する心遣いと気遣い、思いやりがなかったことが全ての原因ではないか。本当に思いやりがあればマナーは守れる。いくらそんなものを『マナーを守れ、誹謗中傷はいかんぞ』と文字で訴え、規則に決めても無意味である。
 今回は子供の話で終始しているようだが、結局は年令に関係なく“相手が嫌がるかもしれないことを教えなければ(教えても)理解できない”ということが一番の問題点なのだ。
 つまり、先のけったいな失言をした大臣も“相手が嫌がるかもしれないことを教えなければ理解できない”輩だったわけだ。

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