キャシャーン、怒りと哀しみの反戦映画
それにしても映画『キャシャーン』、先日の『殺人の記憶』もそうでしたが、こんなにあとになるほどジワジワといろいろと考えさせられる作品に続けて出逢うとは思いも寄りませんでした。
キャシャーン。筆者と同じ40代や近い年齢の人でそのアニメを知らない人はいないでしょうが、どんな時代も子供に夢とメッセージを伝え続けたタツノコプロの傑作のひとつですが、この作品の実写化という話を聞いて筆者が真っ先に思ったことは「イヤだな」ということ。
もとの作品が好きならば好きなほど、妙な形でのリメイクはすなわち自分の聖域に踏み入られたような気分になるもので、今回もそうでした。
また、予告編を観て行くつもりになった時も、決め手は“けっこうカッコ良さそう”“SFとしてできが良さそう”だと思ったからでした。
しかし、映画が始まりストーリーを追って行くと、そこに描かれた世界はSFという形をとっていながらとてつもなく現実的であり、底辺に流れるメッセージの熱さに、自分が思い描いていた映画とは全然異なる作品だと気づきました。
痛い。胸がとても痛い。苦しくて辛くて、こんなに哀しい映画はいままで経験したことがありません。
かつて『ガンダム』は“敵味方”という概念をとりはらって“戦争とは人と人の殺し合いである”ということを初めてキチンと描いた作品でした。しかしそれで描かれた戦争の無常感もどこかに“仕方がない”という気持ちが残りました。
しかしこの作品に於いて、すべてのキャラクターが人間なのです。人間。それは善と悪が共存するものだと描いた作品は多かったけど、この作品では“愛情と憎悪”が表裏一体だと描かれています。
中東を一方的に攻めたことで戦争をまき散らしているアメリカ、自国民をして爆弾テロで無差別に死をまきちらすテロリスト、無茶苦茶な論理で自分のエゴを正当化しようとするイスラエル政府…
すべて彼らなりの理由があるのでしょう。でもやっていることは人殺し。では戦争の当事者を排除すれば終わるのか?誰が一体悪いのか?この作品にはそういった意味で単なる犠牲者、単なる加害者という単純な構図は存在しません。だからハリウッド映画に多い、正義も悪もその枠組みの意味をなさない。立場を変えると誰もが悪で、だれもが加害者…これこそがこれまでのどんな作品も描こうとして描ききれなかったテーマでした。
だからそれをおそらくはじめてきちんと描き上げたこの作品を観ていると、個人や国といったカテゴリに関係なく、殺し、殺され、また殺す無限の憎悪の輪廻そのものに対する、やり場のない怒りと無念さで胸が押しつぶされそうになるのです。
どこにも反戦映画だとは書かれていませんが、反戦映画と言われていた映画ですら、これほどメッセージ性の強い作品はありませんでした。
正直言って、筆者は監督の紀里谷和明という人に対してかなり色眼鏡で見ていました。
たしかに映像という意味でもとんでもない才能は感じますし、制作中から言われていたように特撮としてもものすごい力量の作品です。ですが、やはり特撮は映画においてやはり物語のためにこそあるのであって、今のハリウッド映画がそうであるように、特撮がすごい、というだけの映画は人の心を打ちません。
その点でもこの監督の脚本・構成力でもとんでもない才能です。
今ではこの監督の次の作品が観たいし、きっと彼の作品だというだけで観たくなることでしょう。
この作品のパンフレット自体も大変ユニークなのですが、その内容に関しても、普通はなにかしら第三者によるコメントや解説、讃辞が載っているものなんですが、なんと監督のメッセージとキャストのコメント以外は全部写真だけのフォトブックなんです。
こんなのも初めてです。まあしかし、よく考えてみたら依頼されて書かれた解説やコメントなんて、やっぱり批判的な事なんて載せるわけないし、監督のメッセージを読んだ限りでは彼はそういったことを望んでないようですね。
つまり、映画を観てすべてをあなたの眼で判断してくれ、ということですね。
紀里谷和明、この名前はもしかしたら映画史に永く残ることになるのではという気がします。ただし、そのウェーブは日本ではなく外国から起こるでしょう。幸い彼はNY在住なのでチャンスはいくらでもありそうですが、ひとつ気になるのはキャシャーンが非常に日本的な作りだと感じたこと。
つまり、映画そのものが非常に寡黙なんですね。まるで黒澤明とか昔の名監督のように、台詞ではなく映像や役者の芝居ひとつひとつにすべてのメッセージがある。
普通ならもっと説明的でしかるべきなSF的で難解に思えるシーンでも必要最低限まで絞り込んでいる。あくまで登場人物のしぐさや反応からひとつのなぞめいた台詞の答えを観るものに考えさせる。これは昨今の邦画にはみられない、失われた高度なテクではないでしょうか。
しかも、2時間20分の長尺なのにどんな派手なシーンもカッコイイシーンもすべて一度しか描いていないんですね。予告編を観ていたから何度も観たように思いますが、実はアニメ版キャシャーンでよく知られる、手刀でロボットを切り裂くシーンなどどんな“おきまりな”シーンも描かれるのはたったの一度だけ。
キャラクターにしても、私らオールドファンは事前にその名を知ってましたが、実は劇中では東と上月、そしてルナ以外はほとんど一度しか(アクボーンとサグレーなんて一度も)名前を呼ばれたり名乗ったりしてないんですね。こういう点では単純を好むハリウッド映画界よりも、欧州の通好みな映画シーンでこそ真価が認められそうな気がします。
とはいえ、とにかく驚くことばかりです。
いやあ、すばらしい映画でした。
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